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晩年の渋沢栄一の健康観と健康法

●晩年の渋沢栄一の健康観とは?そして、渋沢栄一の健康法とは?

 

こんにちは。

理学療法士の尾高です。

 

この記事では、渋沢栄一の健康観と、彼の晩年の健康法についてご説明いたします。

 

 

渋沢栄一は、江戸時代に生まれています。

 

1867年に大政奉還がなされ、翌年に明治天皇が即位して明治時代が始まったときに、渋沢栄一は、すでに28歳でした。

 

渋沢栄一は、江戸時代に生まれ、江戸時代を生きたからこそ、新しい理想の社会の姿を思い描くことができ、明治時代が始まってすぐに活動して、近代の日本の経済システムを作り上げることができました。

 

その渋沢栄一は、平均寿命が50歳にも満たない当時において、91歳という長寿を全うし、亡くなるその時まで養育院の運営などの社会事業に携わっていました。

 

その頃の90歳代というと、今の感覚では100歳以上でしょうし、さらに、ただ長く生きていたと言うだけでなく、生涯現役で活動していたのです。

 

それでは、社会事業に尽くしていた晩年の渋沢栄一の健康観とは、一体どのようなものだったのでしょうか?

 

 

渋沢栄一は、自伝において、

私は若い時から不摂制の方で、よく医者から「貴方のようにあまり身体を粗末にしては長生は出来ない」と注意された。

と語っています。

 

また、別の医者からは、「価値のある物は品物でも大切にする。貴方の身体は大いに価値があり、世の中の人も大切がっているのに、かく残酷に取り扱ってはならぬ」と忠告してくれたとのことです。

 

渋沢栄一は生涯通じて忙しく働き、勉強もしていましたが、若い頃からあまり自分の身体のことを振り返り、いたわってはいなかったようです。

 

しかし、60歳過ぎた頃に、摂制が必要だと感じるようになり、無理を慎まねばならぬと考えるようになったとのことで、以後は、「多少摂制を重んじ、物事に満足して心の平安を保つに努め、出来るだけ懊悩苦悶せずにきたのである」と語っています。

 

また、彼は仕事で就寝時間が遅くなりがちだったとのことですが、規則正しい生活を送るようになりました。

 

 

そして、注目すべきは、渋沢栄一が、「長寿を保つというても、なんのなす事もなくいたずらに生命をむさぼることはよくない。もちろん生命のある限り国家社会のために尽くさなければならぬ。かく働くことが出来れば長寿ほどよいわけである」と語っていることです。

 

渋沢栄一は、長生きすることのみを良しとはしていませんでした。

 

渋沢栄一は、健康であればその分だけ世の中のことに多く尽くすことが出来る、生命のある限り国家社会のために尽くすことが出来るのならば、長生きはすればすれほど良いだろう、と考えていました。

 

つまり、渋沢栄一が求めていた健康と長寿は、より多く社会に貢献するための健康であり、国家社会に尽くすため、晩年には世界人類に尽くすための長寿でした。

 

 

渋沢は、「文明の老人たるには、身体はたとい衰弱するとしても、精神が衰弱せぬようにしたい。精神を衰弱せぬようにするには、学問によるほかない」とも語っています。

 

彼は、身体がこの世にある限りは、時代に遅れぬように学問を進め、年寄りでも働けるように心がけたいと考えていました。

 

実際に、渋沢栄一は、「斃(たお)れて後已む」の決心を生涯持ち続け、命のある限り精一杯の努力を重ね、最期を迎えました。

 

 

ですから、晩年の渋沢栄一にとって、自分の体調を管理することは、健康や長生きすること自体が目的だったのではなく、最期まで自分の使命を全うするために、健康に気を配っていたのだと言えます。

 

自身の健康を管理する前提として、公益を追求するという目的が晩年にもはっきりとありました。

 

 

しかし、いえ、だからこそでしょう、晩年においても渋沢栄一は、自分の身体のことよりも、困っている他者のことを優先して行動していました。

 

 

1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が起きたとき、渋沢栄一は、日本橋兜町にあった事務所で被災しましたが、生き残った渋沢は、「わしのような老人は、こういう時にいささかなりとも働いてこそ、生きている申し訳がたつようなものだ」との言葉を残して東京にとどまり、被災者の救援活動に立ち上がりました。

 

このとき渋沢栄一は、83歳です。

 

地震発生の翌日に、被災者への食糧供給、仮設住宅建設、治安維持を、総理大臣、東京府知事、東京市長、警視庁など多方面へ働きかけました。

そして、自ら食糧調達の手配を行い、私邸を食糧配給本部としました。

 

また、渋沢は、自身が副会長を務める協調会でリダーシップを発揮し、被災者の収容、炊き出し、臨時病院の確保など、被災者の救済事業を迅速に実行しました。

 

その後も、民間の立場から被災者の救護と復興を進めるため、大震災善後会を結成して活動を始め、また、海外の知人に援助依頼を求めました。

 

 

1925(大正14)年に、日本で初めてラジオ放送が開始(現在のNHKラジオ第一放送)されると、その翌年より、渋沢栄一は日本国際連盟協会会長として、ラジオを通じて国際平和の講演を始めます。

 

渋沢は、体調を崩して医師から外出を止められても、無理を押して放送局へ行き、国民に向けて世界の平和を訴え続けました。

 

 

1930(昭和5)年、救護法(生活保護法の前身)の実施の見込みが立たなかったため、方面委員(民生委員の前身)と社会福祉事業家たちは、渋沢栄一に望みを託して20名で渋沢の私宅を訪問しました。

 

そのとき渋沢栄一は、病気で発熱し、床に伏せっていましたが、執事や看護師の制止を振り切って応接室に出て、彼らと面会しました。

 

方面委員や社会福祉事業家たちが帰ったあと、渋沢は、執事を通じて内務大臣と大蔵大臣に電話をかけ、二人に面会を申し込みました。

 

家族や医者、周りの者は、外出を必死で止めましたが、渋沢は、

「みんなには私の気持ちがわからない。全国20万人の人たちが助かるために働いて、それで私の身体にもしものことがあったとしても、それは私の本懐だ」

と言い、熱を押して、車を支度し出かけ、内務大臣及び大蔵大臣に救護法の施行を請願しました。

 

その翌年の11月に渋沢栄一は91歳で他界していますが、残念ながら、救護法の施行は、渋沢栄一が亡くなった2ヶ月後となりました。

 

しかし、渋沢栄一の働きかけがなかったならば、救護法の施行はもっと先送りされていたことでしょう。

 

渋沢栄一が亡くなったのはこのときの無理がひびいたのではないかと考える人もいます。

 

そうかもしれませんし、それまでも死をもいとわず命がけで活動してきた渋沢栄一ですから、若い頃からの無理が身体に蓄積していたかもしれません。

 

 

ただ、命を削って働き続けながらも、渋沢栄一は91歳まで生きました。

 

渋沢栄一は、自分の身体をなげうって、世のため人のために活動していました。

 

渋沢栄一にとって、自分の健康は、自分の使命を果たすために必要なものでした。

 

 

その渋沢栄一が、晩年に熱心に行っていた体操があります。

 

教育家であり、柔術家である坂本謹吾によって考案された「坂本屈伸道」という運動法です。

 

それは、晩年の渋沢栄一の活動を支えた健康法であり、「渋沢栄一の長生き体操」とも言われています。

 

 

坂本屈伸道は、基本的に正座で行います。

 

身体を屈めたり伸ばしたりする動きと、お腹を凹ませたり膨らませたりする動きを繰り返すシンプルな運動法です。

 

また、運動を始める前と最後に、礼をして、大自然に感謝するのも特徴です。

 

81歳から坂本屈伸道を始めた渋沢栄一は、当時健康上の悩みがあったそうですが、屈伸道の効果を実感していました。

 

坂本屈伸道のやり方の記事↓

【坂本屈伸道のやり方】渋沢栄一の健康法を簡単に分かりやすく!

 

動画もあります。↓

 

 

渋沢栄一は、世のため人のためという、人としての務めを全うするために、坂本屈伸道を必要としました。

渋沢栄一は、社会に貢献するという目的のために、自身の健康管理の必要性を感じ、その自分の使命を全うするために、坂本屈伸道を選び実践したのだと考えられます。

そして、坂本謹吾と坂本屈伸道は、渋沢栄一の要望に応えることが出来たのです。

 

 

 

渋沢栄一が生きた時代は、国内外で戦争がありました。

感染症も流行りました。

渋沢栄一自身、何度も病に倒れています。

暴漢に襲われたこともありました。

 

渋沢栄一が長生きして活動し続けることが出来た理由は、自分の使命をはっきりと認識し、その使命を果たすために、最大限に力を尽くしてきたからだったと言えるでしょう。

 

渋沢栄一体操には、渋沢栄一の教えが含まれています。

渋沢栄一体操(渋沢体操)& 坂本屈伸道

 

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